ヂスフィーリ前史
1932年に組織的なコンクール形式のヂスフィーリが始まるまでの主な出来事
- 1900年代末から1910年代
- アンゴラの「センバ」を基本として、「サンバ」が(徐々に)発生する。
- 宗教儀式兼コミュニティ活動としてのカンドンブレにともなうバトゥカーダの習慣
- バイーアを主とするアフリカ系ブラジル人のリオデジャネイロ移住
- 悪童たちの溜まり場としてのチアス=バイアーナスの家の存在
- 多くの資料では1916年11月27日付、ビブリオテッカ・ナシオナウに著作権登録された、ドンガ&マウロ・ヂ・アウメ
イダ作の『ペロ・テレフォーニ』をサンバ第一号としているが、それ以前に発表されたと思われる曲も存在する。
- デスカスカンド・オ・ペソアウ(レコード会社オデオンが1912年〜1914年の曲として収録)
- ウルブ・マランドロ(同)
- ア・ヴィオラ・エスタ・マゴアーダ(オデオンが1912年〜1915年の曲として収録)
- モレッキ・ヴァガブンド(同)
- ショーラ・ショーラ・ショラドー(オデオンの管理番号がペロ・テレフォーニより若い)
- サンバ・ホッショ(同)
- ミシャエーラ(レコード会社コロンビアが1908年〜1912年の曲として収録)
- クワンド・ア・ムリェール・ナォン・ケール(同)
- カーザ・ヂ・バイアーナ(レコード会社ファヴォリッチが1910年〜1913年の曲として収録)
- フロール・ド・アバカッチ(レコード会社フェニックスが1914年〜1915年の曲として収録)
- サンバ・ド・ウルブ(同)
- サンバ・ド・ペソアウ・デスカラード(同)
- ヴァデイア・カボクリーニャ(同)
- サンバ・ドス・アヴァカリャードス(同)
- 1920年代
- カーニバルではハンショがメイン
- ハンショには通常中流以上が参加し、衣装代をかけた贅沢なお祭りという位置づけだった。
- ブロッコ、コルダォンといった「勝手連」が散見されるようになる
- サウージ地区に住むバイーア出身者の集まり
- カンドンブレ調のバトゥカーダ
- プラッサ・オンゼ周辺を練り歩く
- 「ブロッコス・ヂ・スージョ(『汚い者の集まり』)」が目立つようになる
- 仕事から(風呂ぬきで)現場に直行するスタイル
- シーツを改造したようなありあわせの衣装
- ガイコツのマスク
- パレードの先頭にコルドンィス・ヂ・ヴェーリョス(「年寄りの仮面」をつけた一群)を置くのがならわし〜コミッソンィス・ヂ・フレンチの原型
- 男性の女装、女性の男装というスタイルも多い〜ブロッコ・ダス・ピラーニャス(女装スタイルのカーニバル)に繋がるスタイル
- エスコーラ・ヂ・サンバの出現とコンクールの始まり
- 1923年4月11日、「コンジュント・オズヴァウド・クルース」設立
- 1927年(1928年とする資料もある)8月12日、デイシャ・ファラール設立−イスマエウ・シウヴァが、近所にあった学校を見つつ「うちはサンバの教導者を作るエスコーラ(学校)だ」と語ったと伝えられるが、従前から「エスコーラ」を名前に使うブロッコがあったという研究者もいる。
- 1928年4月28日、「ブロッコ・エスタサォン・プリメイラ」設立
- 1929年1月20日、カンドンブレの教導者でジャーナリストのゼ・エスピンゲーラが自宅敷地を開放してコンクールを主催−優勝はオズヴァウド・クルース。デイシャ・ファラールは禁止されていた管楽器の使用にこだわったため失格。
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