G.R.E.S. インペリオ・セハーノ

創立: 1947年3月23日
チームカラー: 緑白
シンボル: 冠

 「丘の帝国」 インペリオ(帝国)は、「後見エスコーラ」であるインペリオ・ダ・チジューカに倣ったもの(ブラジル皇室がリオデジャネイロにあったことに因んだもの)。「丘」は設立本拠地(マドゥレイラ地区)の後背に存在するセヒーニャ(「小丘」という丘)に因む。

 マンゲイラ、ポルテーラと並ぶ、老舗エスコーラ。プラゼール・ダ・セヒーニャからの分離独立で成立。1946年、プラゼール・ダ・セヒーニャ のエンヘード「サンフランシスコ会議」について、マノ・デシオ・ダ・ヴィオラとシーラス・ヂ・オリヴェイラ作のサンバ・エンヘードの採用が決まっていた が、土壇場(当日とも言われる)になって、プレジデンチのアウフレド・コスタの鶴の一声で別の曲に変更され、現場は混乱し、プラゼール・ダ・セヒーニャは 11位に終わった。これを不服としたマノ・デシオ・ダ・ヴィオラ、シーラス・ヂ・オリヴェイラ、モレキーニョ他のメンバーがドナ・エウラーリア・ド・ナシ メントの家に集合し、新エスコーラの設立を決定した。

 1948 年の初参加以降、(1949年から1951年まで主管団体の争いによって分割開催となったが)1951年まで4年連続優勝。以後も、1955年、1956 年、1972年の優勝を含め、概ね優勝争いに絡む強豪として存在感を誇った。頑ななまでに伝統を守ろうとする姿勢が好感されるが、以後のカーニバルの商業 化の流れに押され、成績は下降線をたどる。1982年の「ブンブン・パチクンブン・プルグルンドゥン」は、こうした流れに警鐘を鳴らすもので、伝統の守護 者としての面目躍如、また、カーニバルの良心として絶大な評価を受けて優勝した。(同年のエンヘード((シノプス))は、エスコーラ・ヂ・サンバのスタイ ルのサンバ成立時の様子についてのイスマエウ・シウヴァへのインタビューや、プレジデンチ・ヴァルガス〜プラッサ・オンゼ〜サプカイという時代に連れたサ ンバの移り変わりが描かれた良質な資料でもある。)しかしながら、以後は評価に恵まれず、2部降格ラインを争う年が続く。

  前出のマノ・デシオ、シーラス・ヂ・オリヴェイラ、モレキーニョのほか、イヴォニ・ララ、アルイージオ・マシャード、アルリンド・クルース等、サンバ界の 重鎮と目すべき人物を多く輩出し、サンバ・エンヘード以外にも多くの名曲を生み出している。サンボードロモでのパフォーマンスとは別次元で評価・尊重され るべきエスコーラ。

エンヘード

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