ウニードス・ヂ・ヴィラ・イザベウ1994

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「始めまして、イザベウ・ヂ・ブラガンサ・ドゥルモン・ホーザ・ダ・シウヴァです。ヴィラと 呼んでね!」


 親愛なる友人となるべき皆様、はじめまして、私はヴィラです。お互いにより深く知り合うために、今日は皆様に私自身についてのお話をさせてください。私 自身について、そして、私の来歴や裏話を披露します。それから、私が尊敬する人たちのことと、私のたくさんの子供たちのこと、すなわち、リオデジャネイロ 市の不朽の歴史として刻まれるべき人々のことをお話します。

  私という土地に最初に住み着いたのは、タモイオ族とトゥピナンバ族のインディオたちでした。彼らは、リオデジャネイロ市ができるあたりまで、辺境部にとど まっていました。続いてやってきたのはイエズス会です。彼らは私の上を開発して大規模なサトウキビ農園を経営しました。こうして、何年にもわたって、私は ポルトガル王室の役にたってきたのです。このころの私はファゼンダ・ドス・マカッコス(「猿農場」)と名乗っていました。

ブラガンサ朝の時代

 このブラガンサという名前で、私は皇帝ペドロ1世の持ち物となり、彼のお気に入りとなりました。陛下の一番好きな農場でした。陛下は何度も何度も私の道 で馬を乗り回し、気晴らしや考えをまとめるきっかけとなさっていました。やがて陛下は2番目の御妃様を迎えられました。7日間もの祝日を設けて盛大な披露 宴が催されました。そして、陛下から御妃様であるブラガンサ公女アメリア妃への数多くの贈り物の中に、私も含まれたのです。つまり、皇室の別邸となったわ けです。この後何年かして所有者が変わるまで、私は皇室の持ち物であり続けました。

ドゥルモンの時代

 続いて、私はジョアン・バチスタ・ヴィアナ・ドゥルモン氏、有名な男爵となる方のものになりました。私が本格的に育つのは、彼と出会ってからのことでし た。なんということでしょう。私の都市化を進めるためにわざわざ建設設計会社までが設立されたのです。道路はフランス風に整備されて、ほぼすべてが、高名 な奴隷解放論者や在住の偉人にちなんで名づけられました。ジョアキン・ナブーコ、ベゼーハ・ヂ・メネーゼス、マノエウ・ヂ・アブレウ、テオドーロ・ダ・シ ウヴァなどなど。人々に敬愛された皇帝ペドロ2世の訪問を受けることもありました。私の発展は続きます。旧ゴイアバウ通りに動物園が設置され、ブラジル初 の全寮制学校であるコレジオ・ジョアン・フランシスコ・ブラガンサが建設されました。ジョアン・フランシスコ・ブラガンサという人物は、ブラジルの国旗歌 の作曲者です。競馬場であるプラード・ヂ・ヴィラ・イザベウも建設されました。私の重要性が高まっていきました。この後すぐ、路面電車が設置され、それと ともに大勢のファンが集まってくるようになりました。私の道路に美しく着飾った人々があふれるようになりました。

バラ(ノエウ・ホーザ)の時代

 20世紀の初頭のことです。私の一番の目抜き通りはフランス風とリオらしい親しみやすさが混交した風情のブーレヴァール28ヂ・セテンブロでした。私の 成長は続きます。多くの工場が建てられ、つれて住民も増えていきました。中でもコンフィアンサ・ヂ・テシードスという繊維工場は、我が大いなる息子ノエ ウ・ホーザの歌「トレス・アピートス(3連の警笛)」の題材として永久保存されることになりました。コンフィアンサのほぼ全ての工員と同様にペルナンブー コ州出身のルイス・アウヴェスおじさんが鳴らす3連の警笛。そこには、どことなく彼の出身地であるペルナンブーコの風情がありました。それをきっかけに、 リオ中で一番重要なフレーヴォである「オス・レニャドーレス(きこり)」が私の道路で披露されました。念入りに練習を重ねた成果を喜びいっぱいに表現する 形で、カーニバル中、大いに盛り上がりました。まさしく地区の住民によるお祭りでした。私のカーニバルに息づいていたのはフレーヴォだけではありません。 いくつものブロッコがステージを揺らしました。どれが一番かは難しいですが、「カーラ・ヂ・ヴァカ(牝牛の顔)」か「ファス・ヴェルゴーニャ(恥さら し)」のいずれかでしょう。


 路面電車や路上での紙吹雪合戦も例えようのないものでした。自家用車やレンタカーで集まった人々が、コルソ(訳注:紙吹雪や香水を投げるスタイルのパ レード)をドキドキしながら待っていました。紙吹雪や紙テープが舞う中を、ベリーダンサー、スルタン、海賊などなど、様々な扮装をした人々が、オープン カーに乗ってパレードしました。そういえば、お祭りが多いのも私の特徴です。ペ・ヂ・モレッキ(ピーナッツバー)が食べ放題のフェスタ・ジュニーナ。フェ スタ・ド・ヂヴィーノ(聖霊降臨祭)では、貧困者に肉をふるまう肉屋の「ガルガンタ(喉)おじさん」見たさに多くの人がやってきました。

 私の日曜の夕刻にはロマンティックな風景が見られました。水晶占いに相談して、トム・ミックスの西部劇映画を観て、そのあとはカフェでピスタチオ入りの アイスクリームとソーダとか。

 こうして、私はどんどん恋人たちや詩人たちの定番になってゆきました。夜のとばりが下りるころには、レイテリア(ミルクホール)ヴィタ、ポント・ド・セ ン・ヘイスといったお店から、そして路上で演奏する人もいて、本当にあちこちから聞こえてくるギターの音色が歩道にあふれていました。この頃、真夜中から 夜明けにかけて、月明かりの下、冷えたカスカチーニャ(訳注:ビールの銘柄)を友として、この時間を支配したのがタンガラースというグループでした。詩人 とボヘミアン・スタイルをこよなく愛する人たちによる本物のバンドでした。アウミランチやジョアン・ヂ・バッホ(ブラギーニャ)が主にボーカルを務めてい ました。

 こうしてサンバがどんどん私の中を占めるようになっていきました。日増しに、夜がサンバのリズムで満たされるようになっていきました。そしてついに、私 の昔の名前を今に引き継ぐモーホ・ド・マカッコ(「猿が丘」)で、1946年に、シナおじさんの手によって、私のエスコーラ・ヂ・サンバであるウニード ス・ヂ・ヴィラ・イザベウが創立されました。ウニードス・ヂ・ヴィラ・イザベウは、間違いなく、私のアーティストや友人たちの拠点であり続けています。と いうのも、芸術家である私の子供たちが、私の砦となってくれているからです。ノエウ・ホーザは世界中に知られています。オレスチス・バルボーザの話を聞い たことがない人がいるでしょうか。パウロ・ブラザォンを知らない人がいるでしょうか。もちろん、我らがマルチーニョ・ダ・ヴィラは言うに及ばず。ヴィラで はない人でも皆が知っているでしょう。

ダ・シウヴァ(「口笛」、普通の人々)の時代

 私の歩道、世界に類を見ない楽譜歩道を、今日、色々なタイプの人々が通り過ぎていきます。せわしない人、落ち着いた人、地元の人、よそから来た人。それ でも確かなことが一つあります。開発はずいぶんと進みましたが、私の雰囲気はまったく変わりません。かつてよく呼ばれたように、大家族のように、人々は連 帯しているのです。それを表す例が、私たち皆の心に生きている、我らが愛すべき「ペルナ(脚)」です。つい最近まで、クリスマス毎に「持てるものは与え よ、持たざるものはとれ」と書いた大きなかごを設置し、これを通じて富裕層が貧困層に同じようにクリスマスを祝う機会を提供できるようにしていました。

ヴィラと呼んでね

 確かに私も、内面よりも外見に関しては、多くの部分で変わってしまったと思います。だからこそ、今日においてなお、私のバックグラウンドを語ることで安 心できるのです。皇女のヴィラであったことを。モーホを出自としていることを。貴族的なものも出自としていることを。それよりも、私を愛してくれる人たち がいることを。


(サンバ・エンヘード)
ヴィアニ・シウヴァ(ボンブリウ)、エヴァンドロ・ボカォン、アンドレ・ヂニース

「歌いながら私は行く」
私の魅力を披露する
始めまして、私はミューズ、芸術の源泉
私の魔法に身をゆだねてください

かつてはインディオが住んだ
私の土地では後にイエズス会がサトウキビを栽培した
それが「ファゼンダ・ドス・マカッコス」
やがてこの国の皇帝のお気に入りになった
ペドロ1世からアメリア妃への贈り物にもなった
ドゥルモンの先進性から
文化と「フランス風」スタイルを手に入れた

「私は路面電車に乗った」ブーレヴァールを「通った」
「コンフィアンサ」は甘い思い出
ノエウが歌った「三連の警笛」は
いまもヴィラ・イザベウにこだまする

ブロッコ、コルソ、「レニャドーレス」
私のカーニバルの喜び
恋人たちを揺り動かし、愛の魔法でカップルを誕生させた
祭の夜、セレナーデ、ギター、そして「タンガラース」
恋人たちと詩人たちの定番になって
楽譜歩道に記録された
「シナおじさん」を起こせ、「ノエウ」を目覚めさせろ
我々の青白のエスコーラを見てもらうために
そして「ゼ・フェヘイラ」(マルチーニョ!)が群衆にあいさつする
ヴィラと呼んでほしい、この「ブラザォン(紋章)」は私の誇り

与える者は取らない
このみんなの晩餐からは
私は高貴なモーホの出身
愛してくれる人のもの

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