サンクレメンチ 2015


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“恐れるものは3つだけ−マチンタ・ペレイラ、トカンヂーラ、オンサ・ダ・ペ・ヂ・ボイ−という男の奇談”

リオブランコという街を表現すれば、とにかく深い森に囲まれたところ。茂みに敢えて踏み入ろうとする者はいない――「気でも違ったか、おい?」――そこ は、ウルブを操り大雨とともに消える魔女マチンタ・ペレイラや、ヘビのような危険な牙をもつ猛獣ゴゴー・ヂ・ソーラや、トカンヂーラと呼ばれるアリ、そし て、皆が実在を疑わない、牛のような足をしたジャガーであるオンサ・ド・ペ・ヂ・ボイが暮らすところ。我らが主人公は、そんな遠いところで、幼少期を過ご した。

そこで育ち、やがて、残りの人生を過ごす場所であった、そして、もともとの生まれ故郷であった、リオデジャネイロへと戻ってくる。

記 録によれば、カーニバルに参加したきっかけは、「ママンィ・エウ・ケーロ」や「トウラーダス・ヂ・マドリー」を聴いたことだという。所属先のブロッコ・ ヂ・スージョは練習を墓場で行っていた。少年たちは整備中の第4区の近くに集結しており、そこに埋まっている死者から騒音についての苦情を受けることはな かった。

「リオブランコ通りは、とにかく眩しかった。」−全車線、すべからく装飾されて、仮想した人のグループであふれていた。フロート 車に混ざって、コルダォン他、いろいろなグループ、ブロッコが練り歩いた。ピエロ、アルレキン、チロル風、オランダ風、たくさんのコロンビーナがいて。

時 は過ぎ、大戦を経て、ヴァルガスの独裁時代を経て、我らがヒーローも立派な大人となった。カーニバルのパレードが通る、まさにそのリオブランコ通りには、 市営劇場、国立図書館、美術館、芸術学校が並び立っていた。彼もまたその道を進み、芸術に魅かれ、然るべき学校に通い、劇場にも通い、やがてそこで長きに わたって働くこととなった。上階にある職場の窓は、ある意味、特等席だった。そこから彼は、当のリオブランコ通りで、ナタウが叫び、ポルテーラが展開を繰 り広げる姿、すなわちエスコーラ・ヂ・サンバによるパレードを初めて目撃した。

やがて、エスコーラ・ヂ・サンバの採点を行う審査員就任を打診され、これを受諾した。

ま たもやリオブランコ通りで、今回は木製のスタンド席から、一風変わったパレードを見ることとなった。「最初のエスコーラの山車の車軸が壊れてしまった。で は2番目はというと、前が動かなければ入れないと。では3番目。これもだめ。4番目もだめ。午後11時半になって、5番目のエスコーラが出ると、誰かが教 えてくれて、それでようやっと、、、」

この5番目こそが、デブレーをテーマとして提示して我らが審査員を魅了したサウゲイロだった。他のエスコーラが「栄光のパンテオン」や「トゥイウチの戦い」などとやっている中で、芸術家であるデブレーのことを歌っていたのだ。

この後、我らが主人公はサウゲイロに参加し、カルナバレスコとなった。奇しくも、彼が少年時代に参加していたリオブランコのサッカーチームもまた紅白をチームカラーとしていた。

翌 年には早速、作成依頼すら待たない勢いでエンヘード構想に取り組んだ。彼が選んだのは、奴隷制時代の黒人抵抗運動家であるンザンビ・ドス・パウマーレス (ズンビ・ドス・パウマーレス)という、それ以前にエスコーラが焦点をあてようとしなかったテーマだった。ズンビはやがて映画の題材となり、今日では抵抗 運動のシンボルとなっている。

人々に気づきを与える素材はンザンビだけではなく、他にもシカ・ダ・シウヴァ(爆発的なヒット!)、アレイ ジャヂーニョなどがあり、果ては、アフリカの王による在伯ナッサウ=ジーゲン侯訪問についても取り上げた。この歌は、カーニバルにとどまらず、サッカー・ スタジアムや結婚式でも歌われる、今日まで続く大ヒットとなった−?「オーレレ、オーララ、ペガ・ノ・ガンゼー、ペガ・ノ・ガンザー」。

こ うした成功に関わらず、パンプローナに対しては、大衆的な表現を取り扱うべきではないといった類の批判が絶えなかった。得てして見逃されることだが、 1940年代をはじめとして、当時のエスコーラ・ヂ・サンバでは、エンヘードの作成に際して、古典的な芸術家等の専門家と契約することが行われていた。

リ オデジャネイロの市制400年記念にあたる年に選ばれたテーマは「リオのカーニバルの歴史」で、エネイダによる通年の指揮のもと、リオのカーニバルとピエ ロの舞踏会が表現された。パレードでは、たくさんの紙ふぶきや紙テープが投じられた。そのサウゲイロの後ろでは、ポルテーラのパレード開始前にコースを掃 除するべく、清掃員が待機していた。サウゲイロのメンバーらはこれをポルテーラのコミッサォン・ヂ・フレンチと茶化していた。ポルテーラの関係者は、清掃 員に、サウゲイロのパレード終点までしっかり掃除するよう要求した。そして終点では勘違いした観客が沸いた。「すごい!後片付け用の清掃員まで自前で用意 しているよ。」この清掃員の姿は、後に、ジョアンジーニョ・トリンタによって、彼の手による有名なパレード「ネズミ、ウルブ、私の衣装を離せ」に取り入れ られた。当時のジョアンジーニョは、山車装飾担当兼ダンサーだった。結局、ダンスの道は諦め、カルナバレスコとなったわけだが、それはまた別の話...

我らがヒーローは、その後も素晴らしい成績を残し、やがてテレビの仕事に注力するようになった。そしてある日、人生に疲れ、この世を去った。これについて私は、少し裏切られたような印象を持った。彼の人生は、恐れずに立ち向かう冒険のようなものだったから。

天国で彼は丁重に迎えられたに違いない。ンザンビ、アレイジャヂーニョ、シカ・ダ・シウヴァその他たくさんの、この国の文化を担った黒人たちによって。彼らが旗を振りながら、声を合わせて叫ぶ:「パンプローナ、パンプローナ、パンプローナ...」

ホーザ・マガリャンィス

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